感覚優先の言葉と概念優先の言葉

 感覚と概念の違いについて書いてきました。それから私の世界と私達の世界についても過去書いてきました。実はこの二つが妙に繋がってしまうのです。すなわち「私の世界」が「感覚の世界」であり「私達の世界」が「概念の世界」なのです。もう一つ他の言い方をしますと皮膚を中心として内側が「私の世界」が「感覚の世界」であり外側が「私達の世界」が「概念の世界」なんですね。

 「私の世界」が「感覚の世界」というのは全ての原因が私にあるという立場です。例えば私は日本に二週間帰っていました。アメリカに帰ってきて体が少し変で、眠気も日中なのにするんですね。この体の状態をそのまま受け入れるのです。その自分の体の状態をそのまま受け入れるので、それに対して自分なりの対処をするのです。理由を他に求めないという意味なんです。ほとんどの人は時差があるから大変ですねというでしょう。理由を時差が原因としてしまうのです。これが普通ですね。感覚は他に原因を求めないのです。

 何かうまく行かなくなったときにイライラしている自分があるとします。イライラとしている怒りの感覚がありますね。少し心臓の鼓動も早くなっているかもしれません。お腹の辺りが重くなっているかもしれません。そしてその原因がなんか他の人が介入していたらその人に置きます。この人がいるからうまく行かないとか思うでしょう。しかし、感覚の人は自分のその体の状態をそのまま受け入れるのです。人が悪いとは思わないのです。だから少し休むとか何も言わないとか、理解して欲しいと思わないとか、そうするとこの体の状態は長続きしませんので段々と収まります。人に責任にしてしまった自分を改めるのです。

 こんなの序の口ですよね。

 言葉の中には、感覚優先の言葉と概念優先の言葉があります。初めにどこが違うかと言うことについて書いてみようかと思います。一般的に私たちが使ってる言葉の多くは概念によって作られた言葉がたくさんあります。会話もの自体が概念によって作られたものなんですが、例えば人がたくさんいるのは別に問題ないのですが、たくさんの人間が集まって、それを種類に分けたりとか統計的に評価を基準をくっつくった場合、それの物差しによって人を図ると言う言動です。この評価という言葉自体が自分自身を自己評価する場合は良いんですが、ほとんどそのような事はなくて一般的な評価基準というものがそこには存在するんです。

 そのグループの範囲はいろいろあるんですが、その中でのある一定の評価基準って言うものは存在していて、それで人間の優劣を決定すると言うシステムがあるんです。結局、これによって人間一人一人が唯一であり、人間の価値というものは天宙的な価値を持つという意味が全く失われてしまっています。優秀なものと劣っているものが、分けられて優秀な人に劣っている人は従わないといけないとか、正しい人に間違っている人たちは従わないといけないとか、そのような比較基準の中で評価されながら、生きる人間の姿が概念を優先させた人間の生き方になってしまっているんです。

 現代の社会を見るとほとんどそのようになっています。正しくそれが普通であるかのように、現代の社会は成り立っているんです。それに気づかないで生きているのではありませんか。私はそのような中で非常に生きづらさを感じてきたので、その辺はよくわかります。私自身が感覚を優先させてきたので、この概念を優先させている人々の中では、結果的に生きづらいのは当たり前なんです。人々は私を理解できないからです。

 感覚の人の感覚と言うのは正しいかどうかもわからないし、当然、自分自身の評価も現代社会と照らし合わせてみると稀な考え方になってしまっているので、当然ながら人の評価基準は下がってしまいます。概念の人々は多くの人々の多数決で良し悪しが決まっていきます。多くの人々が感動することのできる意見を持っているならば、その意見と言うものは絶対に正しいと確信するでしょう。そして多くの人々にそれを共有するのです。だからそんな人は自分が絶対的に正しいんだと確信しているんです。だからみんなが正しいと思っているので、衝突は免れる事はないでしょう。

 感覚の優先する人と言うのは自分だけのものなので、比較対象するものが実はないんです。だから自分の意見が正しいかどうかも判断がつかなくなっているんです。私がこのように色々と発信していますが、実は自信がないんです。そして自信がないので人に強要することもできないんです。一人一人が違うので、一人ひとりの受け取り方も違うし、そんなの人に受け入れるかどうかと言うその判断も一人ひとりの評価にかかっているので、絶対に強要する事はできないんです。なので、私はこのようにして1つの環境要因として言葉に表して発信しているので、正しいか間違い間違えるの判断は私自身はしません。

 そして人々は概念の人々なので、数少ない稀な考えは多数決では稀なので間違った意見だと言う評価はするでしょう。正しいか間違っているかと言うその評価基準と言うのは、多くの人々が多数決で正しいと決まっているならばそれは正しいと言う評価になりますし、少数の人々の意見というのは間違った意見として評価されるようになっているんです。これが概念の特徴なんです。だから私の意見と言うのは間違っている意見として取り扱われるのは当然なんです。

 評価という言葉、正規分布という言葉、統計という言葉、常識、社会の分析、ビジネスとか、経済も書けばきりがないくらいに人間の感覚を抑圧するものがあるので概念重視の概念優先の人間にならざるを得ないのですね。ここには善悪、正しい間違いの評価、良いもの悪いものの評価、勝った負けたの評価、良い結果悪い結果の評価、価値があるかないかの評価というように評価基準をつけて生活することです。そういった評価というのは人間が沢山集まって初めて可能な評価ですね。だから概念で作られているものなのです。感覚はその様な評価の関数が変換されて自分が成長して自分が自己実現出来ているかどうかに変換されていくんです。だからうまく行かないとか悪いこととか願ったことにならなかったとかその様な結果を受け入れて自分がまだ未熟だからという理由になってしまいます。

 評価がまったく違うのです。個人の中での理想に対する自己評価になるんです。それから黒白思考をしない、二極思考をしないで曖昧な考え方です。はっきりしない子とか優柔不断な子とかいわれるでしょう。実はこんな子がとっても大切なんですね。感覚の子なんです。感覚でいるとハッキリさせることが出来なくなるのです。自分の意見も持ちません。自分の考えもあやふやです。正しいと思わないし、自分の考えが素晴らしい考えだとも言いません。非常に優柔不断な立場なんですね。高校生のときに担任の先生に美術の大学に行きたいといったらそれでは食べていけないよといわれました。社会に出ると社会はそんなに甘くないねといわれました。これは概念で作られた社会に感覚の人間が肺って行くととんでもなくて押し殺されてしまう可能性もあるということでしょう。悩んで自殺する可能性があるんです。精神病になる可能性もありますね。

 私は自分を見失わないで完全に感覚優先の人間だったので自分の感覚に真剣に向き合って受け入れて取り組んでいたからましでした。自分の課題として受け止めていたのでまさにつかみどころのない暗闇の中で手探りで歩む自分の生活がありましたね。そこに何らかの日の光があると良かったのですが、まったくなかったといっても過言でもないそんな生活をしていました。

 

 

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